路地裏にひっそりと佇む喫茶店「月待ち」。
その扉にかけられた「CLOSE」の札が、夕暮れの紫紺の光に静かに揺れていた。
店主の優子はカウンターの内側で、
磨き上げたグラスに映る自分の顔をぼんやりと眺めていた。
もう一年以上になるだろうか。
夫のいるはずの家に温もりがなくなったのは。
広いダブルベッドの片側だけが、夜毎、優子の体温で冷たく湿る。
夫は外に咲く華やかな花に夢中で、
ここに根を張る自分のことなど、とうに忘れてしまったのだろう。
不意に、カラン、と乾いた音がして、古いドアが軋みながら開いた。
振り返ると、そこに立っていたのは小川だった。
毎週水曜の午後三時にだけ現れ、窓辺の席で文庫本を読み、
コーヒーを一杯だけ飲んで帰っていく、物静かな青年。
彼がこの時間に来るのは、初めてだった。
「申し訳ありません、もう閉店ですよね…」
「…小川さん。ほんとはね。でも特別よ。どうぞ」
優子が微笑むと、彼は少しだけ表情を和らげ、いつもの席についた。
その時だった。
ぽつ、ぽつ、と窓を叩き始めた雨粒が、
あっという間に激しい音のカーテンとなって世界を閉ざしたのは。
まるで、この小さな空間に二人を閉じ込めるかのように。
優子は彼の分のコーヒーを淹れながら、
胸の内で静かな高鳴りが生まれるのを感じていた。
店内に響くのは壁の古時計が刻む秒針の音と、窓ガラスを叩きつける雨音だけ。
湯気の向こうで小川は黙ってカップを両手で包み込んでいる。
その指先の、少し心もとなげな動きから優子は目が離せなかった。
「すごい雨になりましたね」
沈黙を破ったのは、小川の方だった。
「ええ…、しばらく止みそうにないわね」
優子はカウンターに肘をつき、静かに言葉を返す。
彼の真っ直ぐな瞳に見つめられると、
自分が見せたくない心の澱までも見透かされそうで少しだけ狼狽えた。
「優子さんは…、いつもここに一人なんですか」
問いかけは、彼の純粋な好奇心からだろう。
だが、その言葉は優子の胸の奥にある、固く閉ざされた扉を静かにノックした。
「夫は、仕事が忙しい人だから。ほとんど家にいやしないの。
…もう、顔を合わせたのがいつだったか、思い出せないくらい」
自嘲気味に笑うと、喉の奥が乾くのを感じた。
それは誰かに触れられたい、という原始的な渇望だった。
それが自分の中に枯れずに残っていることに、今更ながら気づかされる。
夫には愛人がいることも、実は知っている。
それでも、夫婦という形だけの鎖を断ち切ることができぬままに、心だけが擦り切れていた。
「…僕は」
小川が、意を決したように口を開いた。
「毎週、あなたに会いたくてここに来ていました。
あなたの淹れるコーヒーの匂いと、
あなたのまとう少しだけ寂しそうな空気に、
どうしようもなく惹かれていたんです」
彼の言葉は、何の飾り気もない、剥き出しの告白だった。
優子の心の柔らかな部分に、その言葉の熱がじわりと沁みていく。
年下の、まだ何も知らないであろう青年の、あまりにも無防備な眼差し。
それは、計算ずくで女を口説く夫のそれとは全く違う、清らかな光を宿していた。
「…私、結婚しているのよ。あなたを幸せにはしてあげられない」
それは、彼のためというより、自分自身に言い聞かせるための言葉だった。
この純粋さに踏み込んではいけない。そう理性が警鐘を鳴らす。
しかし、小川は諦めなかった。
静かに席を立ち、カウンターのこちら側へと回り込むと、
震える手で優子の手に、そっと触れた。
「幸せにしてほしいなんて、思ってません。
ただ、今、あなたのその寂しさを、
少しでも僕に分けてはもらえませんか」
触れた指先から伝わってくる、不器用で、けれど燃えるような熱。
優子の中で、長い間眠っていた何かが、ゆっくりと目覚めていく。
雨音は、まるで二人のためのワルツのように、その瞬間を祝福していた。
もう、引き返すことはできない。
優子は、彼の熱に応えるように、その手を弱々しく握り返した。
……
店の奥にある階段は、優子の私室へと続いていた。
いつもは優子だけが通る道。
そこを今、小川と歩いている。
軋む木段の一歩一歩が、これから始まる儀式への序曲のように響いた。
窓から差し込む街灯の淡い光だけが、
二人の影をぼんやりと部屋の中に映し出していた。
言葉はなかった。
ただ、抱きしめ合った時に擦れた衣服の布地の音だけが、やけに艶めかしく耳に残る。
彼のシャツの硬いボタンに指をかけると、その下の肌が驚くほど熱を帯びているのが伝わってきた。
彼の唇は、戸惑いと焦燥に濡れていた。
求める場所を知らないまま、ただひたすらに優子の肌を彷徨う。
その初心さが愛おしくて、そして少しだけ切なかった。
優子は彼の首筋に腕を回し、その動きを静かに受け入れ、そしてベッドの上へ導いていく。
シーツの上に体を横たえると、小川の緊張が肌を通して伝わってきた。
そのくせ、小川の中心部はすでに硬く熱く、
ズボン越しでもはっきりとわかるほどに主張をしていた。
「…小川さん」
優子は彼の耳元で囁きながら、枕元の引き出しにしまっていた四角い包装を手渡した。
「これは、約束。…望まない未来を招くようなことは、決してしちゃいけないわ。
本当に大切な人と、その時が来るまではね。
これは、自分を守るためでもあるし、相手への誠意でもあるのよ」
彼はこくりと頷き、裸になると、ぎこちない手つきでその封を切った。
その一連の仕草に、彼の純潔が香り立つようで、優子の体の芯が甘く疼いた。
…そういえば、こうやって目の前でつけているのを見るのも、本当に久しぶりだわ…
小川のぎこちない手つきを眺めながら、優子も裸になった。
それに気づいた小川の、唾を飲み込む音が聞こえた。
準備が整い、彼がゆっくりと体を重ねてくる。
ぎこちなくも、誠実に、丁寧に優子の身体中を愛撫してくる。
不思議なことに、小川のそのやり方はAVに毒されていないようだった。
夫でさえもここまで優しくしようとしてくれなかった。
そのことに気づき、優子は切なさを覚えた。
それと同時に、小川の優しさで、自然と優子のそれは柔らかく、しっとりと濡れてきていた。
「…も、もう、入れても大丈夫ですか…?」
入れる時でさえ、私のタイミングを確認してくれる。
そのことに小さな感動を覚えながら、優子は優しく頷く。
初めてのものが優子の内側を探り当て、ゆっくりと扉を押し開いていく。
異物でありながら、待ち望んでいた熱。
その存在を確かめるように、優子は息を詰めた。
彼の動きは、やはり慣れていない。
ただひたすらに情熱をぶつけてくるだけで、快楽の在り処を知らない。
それでも、その一生懸命さが、優子の乾いた泉を潤していく。
「…ふふ、代わってあげる」
優子は悪戯っぽく微笑むと、彼の肩を軽く押し、しなやかな動きで体勢を入れ替えた。
今度は、優子が彼の上に跨る番だ。
両手を彼の体の横、シーツの上につき、少しだけ腰を浮かす。
そして、彼の熱を再びゆっくりと迎え入れた。
一番深い場所で二人が繋がったのを感じ、優子は恍惚の息を漏らす。
「…ほら、見て」
優子は背中を少し反らせ、
自分の豊かな胸のラインと、二人が一つになっている根本を、彼の目に晒した。
「私たちが、どうやって繋がっているか。…綺麗でしょう?」
誘うような声に、小川は息を呑み、その一点に視線を注いだ。
彼の視線という熱を感じながら、
優子はゆっくりと、そして深く、腰を揺らし始める。
それはまるで、熟練のダンサーが初心者のパートナーを導くような、
優雅でねっとりとしたワルツだった。
彼の純粋な反応が、昂りが、すべて優子の内側に流れ込み、
彼女自身の快感をどこまでも増幅させていく。
雨音はいつしか遠のき、部屋には二人の濡れた呼吸の音だけが満ちていた。
「…あぁっ…ゆうこさんっ…」
……
激しいワルツが終わり、静寂が部屋を支配していた。
いつの間にか雨は上がり、
雲の切れ間から差し込む月光が汗で濡れた二人の肌を銀色に照らし出している。
隣で眠る小川の、穏やかな寝息だけが聞こえていた。
彼の寝顔に残る幼さに、優子は知らず知らずのうちに微笑んでいた。
満たされている。
空虚だった心の器が、彼の純粋な熱で、今は確かに満たされていた。
そうはいっても、これは恋ではないと、優子は知っている。
夫への裏切りだという罪悪感もないわけではない。
けれど、それ以上に、一人の女として求められ、与え、
そして与えられたという事実が、枯れかけていた心に命の水を注いでくれたのだ。
やがて、小川がゆっくりと目を開けた。
目が合うと、彼は気まずそうに視線を逸らし、ぽつりと呟いた。
「…すみません、俺、何もかもが初めてで…」
その言葉が、優子の胸を優しく締め付ける。
「ううん」
優子は彼の乱れた髪を、慈しむように指で梳いた。
「ありがとう。とても…満たされたわ。あなたの初めてが、私でよかった」
その言葉に嘘はなかった。
二人の間に流れるのは、恋人同士の甘い空気とは違う、
もっと静かで、穏やかで、そしてどこか切ない共犯者のような絆だった。
「…また、水曜日のこの時間に、コーヒーを飲みに来てくれる?」
優子の問いに、小川は一瞬驚いたが、その瞳は喜びに変わり、そして強く、深く頷いた。
それが、二人の新しい約束。
雨上がりの静かな夜に交わされた、秘密のワルツの約束だった。
